トリパノソーマ・クルージィの学名について
 
執筆:大田修平 作成日:2010年11月15日
 
生物の名前はどのようにして付けられているのでしょうか。通常,私たちは身近な生物を「セイヨウタンポポ」,「ソメイヨシノ」などのように日本語の名前(和名)で呼びます。和名はその生物の名前であるにもかかわらず,使用範囲は曖昧であり,表記の揺れがある場合も少なくありません(海藻和名問題)。さらに同じ生物について異なる名前が付けられていることも良くあります。一例を挙げると,デンデンムシ,マイマイ,カタツムリなどがあります(これらは厳密に言えば和名というより方言ですが一例として挙げました)。和名には標準和名が指定されていますが,あくまで任意のもので,命名規約などはありません。
 国が異なれば当然名前も異なり,日本以外の国では各国それぞれの言語で生物に名前を付けています。例えば,ジンベエザメは英語ではWhale shark,フランス語ではrequin baleine(ルカン・バレーヌ)などと呼ばれています。同一生物を指す場合でも,国や地域によって様々な名前で呼ばれています。しかし,同じ生物に複数の名前があるようでは生物学のみならず,医学,農学などの研究においては混乱を起こす可能性があります。そこで,学術的な世界では,生物に国際共通かつ唯一無二の名前が与えられています。それが学名(scientific name)です。学名はラテン語で書かれ,基本的に斜体(イタリック)で表記されます。先ほどのジンベエザメの学名(種名)はRhincodon typusと書くように,種名は二語の組み合わせで書かれます。最初が属名,その後に種小名が続きます。
 ウイルスを除く学名を規定する命名規約は3つの規約があります。原核生物(真正細菌と古細菌)の学名は国際細菌命名規約,真核生物の学名を規定する命名規約には,国際植物命名規約(ICBN)と国際動物命名規約(ICZN)の2つがあります。(国際栽培植物命名規約もありますが,ここでは扱いません。)一般的に研究対象生物を動物として扱う場合はICZN,植物あるいは菌類として扱う場合はICBNの下で学名が規定されます(表1)。ICBNとICZNはそれぞれ独立しており,学名が運用されるルールも命名規約によって異なっています。このため,通常は規約間で問題が起こらないのですが,原生生物(原生動物と微細藻類)を扱う研究者には命名法上少しややこしい問題が生じることがあります。
 
表1. 3つの命名規約と対象となる生物

国際細菌命名規約

細菌,シアノバクテリア

国際植物命名規約(ICBN)

植物(藻類を含む),菌類(シアノバクテリアを含む場合があります。)

国際動物命名規約(ICZN)

動物(原生動物を含む)

 
 「具体例に基づく生物の系統と分類」,「藻類と原生生物の分類と解説」でも紹介しているように,真核生物の世界は単純に動物,植物,菌類の3界で分けられるものではありません。現在の研究者が原生生物の新規分類群(新種など)を記載命名する際,原生生物を植物としてあるいは菌類(微細藻類,単細胞の菌類)として扱う場合はICBNの下で,原生生物を動物(原生動物)として扱う場合はICZNの下で記載するのが通例となっています。ただし,クロメラ(Chromera velia)のように光合成を行う「藻類」が,動物として扱われ,ICZN下で記載されている例もあります(Moore et al. 2008)。このように,藻類と原生生物の分類では,どの命名規約を用いるかは,研究者の判断にゆだねられています。(注:正字法上の問題をクリアして,ICBN,ICZNの両規約の下で学名を正式発表する例もあります。)
 近年の分類体系における各スーパーグループの生物がICBNとICZNの概ねどちらの命名規約で規定されているかを表2に示しました。
 
表2. 真核生物ドメインの各スーパーグループを規定する命名規約

スーパーグループ名

グループ名

用いられる規約

オピストコンタ

動物と襟鞭毛虫

ICZN

菌類

ICBN

アメーボゾア

全て

ICZN

プランテ(狭義の植物)

全て

ICBN

クロムアルベオラータ

黄藻植物(オクロ植物),渦鞭毛植物,クリプト植物,ハプト植物,卵菌類

ICBN

ラビリンチュラ類,オパリナ類,繊毛虫類,クロメラ植物,アピコンプレクサ,太陽虫類,カタブレファリス類,テロネマ

ICZN

リザリア

クロララクニオン植物

ICBN

上記以外のケルコゾア類,有孔虫類,放散虫類

ICZN

エクスカバータ

ユーグレナ植物

ICBN

上記以外のエクスカバータ類

ICZN

 
 上でも述べましたように,同じグループであっても異なる命名規約を用いなければならないのは,一部の分類学者にとってはややこしい問題ですが,学名を運用する上では,混乱の元とはなりません。(命名規約間にまたがる同名(ホモニム)の問題は別の機会に紹介します。)ここでは,過去にICZNで扱われた生物をICBN下のシステムに移した場合について,ニューモシスティス(Pneumocystis)とトリパノソーマ・クルージィ(Trypanosoma cruzi)を具体例として紹介してみたいと思います。
 トリパノソーマ(トリパノゾーマ)は眠り病(アフリカ睡眠病)の原因生物で,Vickerman (2000) によると約500種が知られているそうです。人間に感染する場合はツェツェバエなどの節足動物によって媒介されます。眠り病は,WHOによるとアフリカ地域で年間4万人もの死亡者を出している恐ろしい病気です。このため原因生物であるトリパノソーマや媒介するツェツェバエについては医学・寄生虫学的に良く調べられていて,全ゲノム配列が解読されたモデル生物にもなっています。高等学校の生物図説にも必ずと言って良い程掲載されており,トリパノソーマという名前自体は聞いた事がある方もいるかもしれません。分類的にはスーパーグループ・エクスカバータ,ユーグレノゾア門,キネトプラスチダ綱に所属しています。命名規約はICZNによって規定されるのが通例です。
 ニューモシスティスも医学,寄生虫学的には良く知られている生物です。ニューモシスティスは真菌性肺炎の原因生物で,ヒトではカリニ肺炎を引き起こします。(注:カリニ肺炎はP. cariniiにより発症する肺炎とされていましたが,P. cariniiはイヌに発症する肺炎の原因生物で,ヒトのカリニ肺炎の原因生物はP. jiroveciiであることがわかり,ニューモシスティス肺炎,あるいはニューモシスティス・カリニ肺炎と呼ばれています。)ニューモシスティスは,分類学的にはスーパーグループ・オピストコンタ,菌界,子嚢菌門,ニューモシスティス綱,ニューモシスティス目に所属しています。かつては原生生物として扱われたため命名規約はICZNによって規定されていましたが,菌類である事が判明したため国際植物命名規約によって規定する必要が生じてきました。いずれにしても,医学上で扱われる生物ですから,学名の安定性は特に重要であると言えます。
 
 ここからがいよいよ本題ですが,Redhead et al. (2006) によると,Chagas (1909a) がトリパノソーマ・クルージィを記載した際,実はPneumocystis carinii(肺で見つかった8胞子性シスト)が混在していたことが文献精査などで判明しました。一般に,一種と思われていた中に複数種が混在していたことが判明する例は少なくありませんが,トリパノソーマ・クルージィに関しては,Chagas (1909b) がTrypanosoma curziの記載後,Pneumocystis cariniiのシストにシゾゴニーという名称を与え,新属新種 Schizotrypanum cruzi という学名を作ってしまった点がさらに問題をややこしくしています。この3年後に学名Pneumocystis cariniiが公式に発表されました。S. cruziT. cruziの客観異名(注1)でなく,新組み合わせでもないため,Schizotrypanumは学名として適格となり,したがってICZN下では属名Pneumocystisが不適格になる可能性が出てきたことです。ただ,属名Pneumocystisは医学分野でも使われていますので,不適格だからいきなり使わないようにするのも問題です。(注:命名規約を厳密に適用して起こる学名の変更による混乱を避ける際、非合法である学名を保存し、合法名とする場合もあります。)
 
表3 本コラムで扱う学名のまとめ

学名

原記載年

旧規約

タイプ指定後の規約

Trypanosoma cruzi

1909年

ICZN

ICZN

Schizotrypanum cruzi

1909年

ICZN

ICZN

Pneumocystis carinii

1912年

ICZN

ICBN

 
 そこで,Redhead et al. (2006) はPneumocystis属とTrypanosoma cruziの学名の安定を図るため,命名法上の操作を行いました。Pneumocystis属は分子系統的に明らかに菌類であること,および以前タイプ指定(注2)がなされていなかった事実を考慮して,ICBN下でタイプ指定することにしました。通常はICBN下で学名を正式発表する際はラテン語の記載文・判別文(注3)が必要ですが,Pneumocystis属を菌類として扱う場合,ICBN(ウィーン規約)第45.4条によりラテン語記載がなくても正式に発表された学名として受けいれられます。(余談ですが,ICBNにおいて学名の「有効発表」と「正式発表」は意味が異なります。正式発表された学名とは有効に発表された学名のうち,ICBN第32-45条を満たすものを言います。またICZNにおける「適格な」はICBNにおける「正式に出版された」と同じことを言います。)
 
 さらにRedhead et al. (2006)は学名Trypanosoma cruzi を,ICZN下でタイプ指定を行いました。(ICZN下でT. cruzi のタイプ指定を行うことは,学名T. cruzi がICZNでカバーされることを保証し,Pneumocystis属と命名法上の競合が避けられる意味合いがあります。)このような場合,通常,タイプ(標本や図解)は学名が発表されたときの原資料から選ばれますが(レクトタイプ指定),T. cruzi に関してはプロトローグ(注4)に図解や標本(の指定)がないので,著者らはネオタイプ指定(注5)と呼ばれるタイプ指定を行いました(ICZN第72.4.5条)。この際,著者らは凍結保存されたクローン株(F11F5株)がT. cruzi のネオタイプにふさわしいと考えて,タイプ指定しました。この理由は,F11F5株がT. cruzi のゲノムプロジェクトに用いられたことなどが挙げられますが,タイプの選定過程の背景はRedhead et al. (2006) をご参照ください。
 では,Schizotrypanum cruzi についてはどうなるのでしょうか。従来からこの学名は新属新種ではなくT. cruzi の新組み合わせとして受けいれられています(注:この記述は,上の文章と矛盾すると思います。Redhead et al. (2006) がChagas の文献を精査し総合的に判断した結果,新組み合わせと判断するのが妥当であると言う意味です。)。T. cruziをタイプ指定して学名を適格にすることで,属名Schizotrypanumのタイプ種はT. cruziとなります。このような命名法上の操作により,ある意味,堂々と属名Pneumocystisが使えるようになりました。Vickerman (2000) などによると,トリパノソーマ属の亜属(Trypanosoma subg. Schizotrypanum)として該当タクソンが認識されているそうです。
 Redhead et al. (2006) の論文には,ここで述べたTrypanosoma cruzi以外の学名についても,Pneumocystis cariniiP. jiroveciiに関するレクトタイプ指定やICZNからICBNに移した際の正字法の議論が載っていますが(例えば,ICZNではP. jiroveciである綴りが,ICBNではP. jiroveciiと綴られます(ICBN第60.11条)),ここでは詳しい紹介は省きます。以上簡単に見てきたように,学名の適用に関しては細かい規則により規定されていますが,これは国際植物命名規約前文にもあるように,間違いや曖昧の原因となるようなあるいは科学を混乱させるような学名の使用を避けるためです。
 
本コラムの用語解説:以下の注釈は国際植物命名規約を参考に著者が書いたものですが,用語の正確な定義は,各命名規約原文(ICZNICBN)をご参照くださるようお願いします。
 
注1:客観異名とは同じタイプに基づいた異名のこと。国際動物命名規約と国際細菌命名規約で用いられる用語で,国際植物命名規約では「同タイプ異名」と呼ばれます。
 
注2:学名は命名法上のタイプに基づき適用されます。例えば,種の場合は基準標本,属の場合はタイプ種のように,あるランク(分類階級)の学名をひとつ下位のランクの一つと結びつける手法をタイプ法といいますが,このときにタイプを選定することをタイプ指定(typification)と呼びます。
 
注3:学名の正式発表のために必要とされる,その分類群のひとつまたは複数の特徴の記述を記載文(description),ある分類群を他の分類群から区別する,その分類群の著者の意見の中で述べられる記述を判別文(diagnosis)と言います。
 
注4:プロトローグ(protologue)とは学名の正式発表に際して,それに付帯する全ての事柄を指します。ICBNでは「初発表文」と訳されています。
 
注5:ネオタイプとは,原資料が現存していない場合(破壊された場合や紛失した場合),あるいは原資料の所在が不明である場合に選ばれるタイプのこと(レクトタイプ指定ができないときの代替手段と考えてください。)
 
参考文献
Chagas, C. 1909a. Neue Trypanosomen. Vorlaeufige Mitteilung. Arch. Schiffs. Tropenhyg., 13:120–122.
 
Chagas, C. 1909b. Nova tripanozomiase humana: Estudos sobre a morfolojia e o ciclo evolutivo do Schizotrypanum cruzi n. gen., n. sp., ajente etiolojico de nova entidade morbida do homem. Mem. Inst. Oswaldo Cruz, 1:159–218.
 
Moore, R.B., Oborník, M., Janouškovec, J. et al. 2008. A photosynthetic alveolate closely related to apicomplexan parasites. Nature 451: 959-963.
 
Redhead, S.A., Cushion, M.T., Frenkel, J.K. et al. 2006. Pneumocystis and Trypanosoma cruzi: Nomenclature and Typifications. Journal of Eukaryotic Microbiology 53: 2-11.
 
Vickerman, K. 2000. Order Kinetoplastea In: The Illustrated Guide to the Protozoa Second Edition. Lee, J. J., Leedale, G. F. and Bradbury, P. eds. Society of Protozoologists, Lawrence Kansas. pp. 1159-1185.
 
コラム微細藻類・原生生物コラム
 
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